アヒルへの伝言と柔らかな本の三角形

柔らかな犀の角 (文春文庫)


アヒールさんのつぶやきが途絶えたことにさびしさを感じる。
いつ頃そのアカウントを知ったのだったか、初めての雑誌担当となり、
相談する相手もおらず毎日の雑誌の山に目をむいていた僕が、
おなじ大阪のお店でふろくと戦っている人がいることを知り、
ユーモアあふれるつぶやきにどれほど励まされたことか。


さびしいけれど車中、能面をかぶって、みずからのために、
無味無臭の雑なメモをツイートする。遅かれ早かれ、
TLからも、売場からも、見知った人々は去っていく。
渡されたバトンを持って走る僕も同じこと。


ならば走れる間はそのバトンを落とさぬように、
放さぬように、次の手の平を探し続けるだけです。


車内で送品表片手に、誌名をつぶやくのが精いっぱい。
ふろくの量(多い)、形状(ごんにょり)、それに対して浮かぶ感情まで(ちょうやばい)、
仔細にかつこれ以上ない早さでTLにあげるあの業、
とてもまねできるものではない。ほんとうに、
ありがとうございました。


とりはしばらく、ひとりで飛んでみます。


車中のとも。平松洋子野蛮な読書 (集英社文庫)』(集英社文庫

夕刻は野菜スープわずか一杯、五臓六腑に沁み渡る。野菜の味わいに集中しながら噛むようにして時間をかけて飲み、ふたたび部屋にもどってベッドのうえで『墨汁一滴』。消灯十時。(p.61)

購入。
永江朗(046)「本が売れない」というけれど (ポプラ新書)』(ポプラ社
稲泉連復興の書店 (小学館文庫)』(小学館
山崎努柔らかな犀の角 (文春文庫)』(文藝春秋


三冊買うと、「三冊屋」*1のことが頭に浮かぶ。
今日の三冊は、「本」というくくりしかない、
三冊屋の名前を出すには赤面ものの、
まことに小さな三角形でしかない。


それでも、点や線でなく、面積を持った三角形であろう、
ということを騒ぎ立ててみる。それぞれの頂点から見える景色を。


1冊目、永江朗の『「本が売れない」というけれど』は、
初めて買うポプラ社新書。帯裏の文章に、「書店の店頭から1週間で姿を消し」
とある。誇張ではないことを知っているが、文字で読むと、首をうなだれる。
本と本屋さんについてたくさん考えてたくさん書いている永江さんの本、楽しみ。


2冊目、『復興の書店 (小学館文庫)』、単行本は結局、
買えないまま図書館で読んだ。「欲しいな」と思った記憶あり。
「元」書店員の佐藤純子さんの「解説」がある、と聞いて、
「買お」となった。どんどんと記憶の奥へと沈み込むあの地震と、
大好きな「本屋さん」とを結び付けて思い出す手がかりとして。


3冊目、『柔らかな犀の角 (文春文庫)』、こちらも単行本を、
気にしつつ手に取れなかった一冊。うん、確か、手に取ってすらいないはず。
「犀の角」と銘打っているのに、角は見えない装画。めくっても、ない。
山粼努といえば同じく気になっていて読めていない『俳優のノート』*2があるな、
と思いながら犀の角を手にすれば、帯の裏には『俳優のノート』の広告。やるな。


俳優の書いた「本の本」といえば、長塚京三の2冊。
長塚京三僕の俳優修業』(筑摩書房
長塚京三私の老年前夜』(筑摩書房


ここに描かれた小さな三角形は、俳優を頂点として、
右に震災、左に日常を配置して底辺に書店を引いた二等辺三角形になる。
この三冊からわたしの人生に実る収穫は、これからやってくる。