教科書の中の詩は、不幸か。

今を生きるための現代詩 (講談社現代新書)


日曜日、今日は出勤。
7時前の近鉄奈良駅には、すでに、
大勢の人が集まっていた。なによ、これ。
観光地?


車中のとも。
渡邊十絲子今を生きるための現代詩 (講談社現代新書)』(講談社


序章が、非常に頼もしい。
あんまり勇ましいことばに、ひやりとするくらい。


第1章では、谷川俊太郎の「生きる」を中学国語で教えることが
槍玉にあがっている。序章で「個人史に沿って書いたのは、これは
あくまでも『個別の実例』であって、『このように読むのが正解という手本』
ではないことを示したかった」(p.15)とあるけれども、この「生きる」という詩を、
「『知的世界の一般常識』を作者谷川俊太郎とわかちあえる読者だけに供された
『おとな向けのおしゃれな小品』なのである」(p.30)と断じているのは、
「生きる」を小学生のころに無邪気に好んだ者としては、悲しい。


その後のところで、「いま自分が、好きではない詩を否定するやりかたではなく、
好きになった詩を肯定することばを書けるのは、つまり、
おとなになったということである」(p.39)とある。
ぼくが、上のところで悲しくなったのは、「生きる」が
否定されたと感じたからなのだけれど、どうやら、
それはぼくの被害妄想なのだろう。


とにかく、学校の授業・教科書が憎いらしい渡邊さんのことばは、
猫舌のぼくには熱すぎるくらいだが、それでも13歳の彼女がひかれた、
谷川俊太郎の「沈黙の部屋」は、なるほど、甘くない。


第2章で「教科書以外のところで詩をさがしはじめた」14歳の彼女の、
求める詩を発見するくだりは感動的だけれど、そもそも詩を求め始めたころのことも、
もっと詳しく聞きたいな、と思った。第1章で、「小学生のころから詩が好きだった」
と言っているが、どのような詩と、どのような出会いをしたのか、
そこのところを、もそっと詳しく聞いてみたい。
(この先、明らかにされるのかもしれないが)


ぼくは、小学生のとき、塾に通っていて、その国語の授業で、
たしか高田敏子の『詩の世界』という本を1冊、少しずつ読んだ。
学校の授業ではなかったけれど、渡邊さんなら、もしかしたら、
「こんな出会いで詩が好きになるわけないな」と思うかもしれない。
ぼくは、こんな出会いでも、詩を好きになった。そういう人もいる。
「うすっぺらなことば」を好んでいたに過ぎなかったとしても。


渡邊さんはそんなことは言っていないのだけれど、
なんとなく、学校の国語の授業の「悪口」を言われているようで、
小学生の時、4月、新しい国語の教科書をもらってきて、
その匂いに息が止まりそうなほどの喜びを感じながら、
一気に読み干したあの幸福を否定されているようで、
さみしい気持ちになってしまう。


そういう人もいるのだ。
国語の授業をきっかけに、「読む」という喜びに出会う人もいるのだ。


万人にとって薬になるものがないように、案外、
万人にとって毒となるようなものが、薬となることもあるんじゃないか、と。


ぐちゃぐちゃと、おしゃべりが過ぎたようです。
引き続き、渡邊さんのお話に、耳を傾けましょう。