ようやっと、読みだせた文庫
今日は、左目の調子が悪い。
それをいいことに、ずっとふとんに入ったまま。
妻は出かけてしまった。娘たちは知らないうちに、
朝食を済ませてしまったようだ。私も、なにか、
食べなければ。
食パンを食べて、ふたたび布団の上に来てしまう。
洗濯物を、干さねばならないんだ、と思いつつ、
目の前の背表紙を目で追う。左目、痛い。
あれこれ一瞬気になるタイトルはあれど、
ガッと胸倉をつかんでくれるものはなし。
なんだか焦りにも似たキモチ、それは、
本が見つからないからではなく、なんだろう、
洗濯物さえ干せないまま、布団の上にいてしまう、
わが身のゆく末が不安でしょうがない、それだけのこと。
パッと『吃音』に指がかかった。アレ?と思う前にページを開いた、
自意識が起動するよりも早く、読め。文字を飲みこめ。
日曜日のとも。
近藤雄生『吃音―伝えられないもどかしさ―(新潮文庫)』(新潮社)
公団の、高いところ。あいみょんの、どうせ死ぬなら、の歌詞が遠くに響く。
あの歌は、死にたい人にも効くのだろうか。かつて死にたかった人には効く気もする。
ほら、だってあたしには作用している。あ、飛んだ。そして18年後に近藤さん。
学生時代に読んだ、自殺して生き残った人の証言集*1を思い出した。
『吃音』は、単行本が刊行されたときから、気になっていた。
当時の勤務先にも入荷してきていたはずだが、買わなかった。
販売促進にいそしもうと思ったが、結局、そのままになってしまった。
返品はしなかったが、棚に残したまま異動になったのではなかったか。
文庫になって、ようやく購入したものの、ずっと棚に差したまま。
今、やっと読みだせた。やっとだ。
この入り口をくぐりぬけられた秘密は、
まだよく分からない。
近藤さんのツイートを読んだり、吃音関係のニュースを見たり、
入り口はそこかしこにあった。でも、本に触ることさえなかった。
今すぐには、ドアの開いた理由は分からない。目次に進もう。
抱えていた複数の問題は、小さな分銅一つで均衡を失ってしまう天秤ばかりのように、かろうじてバランスが保たれていたらしかった。(p.35)
記述のあれこれに自分の過去を照らし合わせてみたり、
洗濯物を干していないことを気に病んだりしながら、
半日、読み進めていった。
夕方、買い物に行くためにスーパーへと向かう途中も、
ときどき頭の中を、さっき読んだ内容がよぎった。
家族や友人たちの支えがあってなお、死を求めるひと。
かえって、天涯孤独のひとの方が、生き残るのか。
いや、そうではない、ただ、身の周りのひとの存在が、
十分な支えになりえなかっただけ、だけ、だけ、いや、
そんな言い方は、周りのひとにとって救いがなさすぎる。
あたしがこうして、洗濯物を干せないまま午前中を浪費してなお、
生きながらえているのは間違いなく、周りのひとのおかげなのだ。
自分の、情けない毎日のあれこれが、
誰かの、情けない毎日のなぐさめに、
なりますように。