日本は見えない地雷であふれている

新装版 世界は小さな祝祭であふれている


雨はやんだみたい。
コンクリートに乾いたところがいくつか。
水たまりもある。夜の早くに雨はあがり、
もうこのあとは降らないように思えた。


大きい傘を持ってきてしまったけれど、
まぁ、濡れていないなら、読書の邪魔になるまい。
送品表をさっさとチェックして、TLをちらりとのぞく。
希望について、取りざたされている。


いまや、圧倒的な多数派が望む社会は、自分を迫害してくるものなのだという認識。
投票しない人たちを合わせても、もはや足りない。踏みにじられる少数派として、
どう生きてゆくのか。なんて、マジメな声色が恥ずかしくなってきて、
本でも読むかと、オレンジ色のハードカバーを。


車中のとも。
小野博『新装版 世界は小さな祝祭であふれている』(モ・クシュラ)


「東京と惨憺」読んだ。p.16-17の写真は、妙に見覚えがある。
ミュージックステーションが六本木のテレビ朝日で収録してた頃じゃないかな。
いや、それは文章にある90年代初頭のことで、写真のキャプションではない。
でも、確かに見覚えがあり、また、今では違ってしまった風景のように見える。


「幸せと雨ざらし」読んだ。ページを閉じる。
周りを見回す。イヤホンのコードがあちらこちらに揺れている。
もう、閉じられているのは東京だけではないのです。
幸い、まだ車内に倒れている人はいないみたいだ。
ぼくには見えてないだけかもしれないが。


「地下と終っていく人生」読んだ。なぜだか、
語り手に夏葉社の島田さんがダブって見えた。
自分の置かれた困難に対して冷静な視線を投げる若者のフォームが、
島田さんのそれに重なったのかもしれない。正確には、
その渦中の心境とは違うのかもしれない。けれども、
なかば諦め、なかば挑戦的な鼻息をもって、
困難との距離を縮めてゆく若者。
それを振り返ることば。


「駅と虚無」読んだ。地雷原が、見えた気がした。
いつもは目をそらしているのかもしれないと思った。
東京の地雷と、大阪の地雷には、どんな違いがあるんだろう。
奈良にも地雷はあるのかな。あるんだろうな。


「鳩の会」読んだ。なんなんだ、この本は。


地上に出ると、かなり降っている。
雨音で、小野さんのことばはかき消され、
いつものようにただ漫然と働いて夜が来た。
「日本」は、その間にも、着々と滅んでいった。
音もなく、いくつもの地雷が爆発した。