「私たちは多分それを知っている」

子どもの本の森へ


ぎりぎりの時間に起き出して、
急いで駅まで駆けて行ったら、
ほんの少し、時間があったので、
冷たいペットボトルの飲み物を買った。


どうやらぼくのなかの冬も、
無事に旅立ったようである。


車中のとも。
國分功一郎暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』(太田出版


第五章「暇と退屈の哲学」すごかった。
第一形式、第二形式ときて、粘り強く、
丁寧な解説を読んでいく中で、自分の中でも、
うっすらと予感めいた思考が芽生え始めたころ、
243ページから244ページへの衝撃が訪れる。


これなぁ、ここのところでページをまたぐのとかも、
計算されているんだろうか。面白い推理小説を読んでいるみたいな。
衝撃を受けたあとも、先ほどの予感めいた思考は生き残っていた。
第五章の終わりで「いずれにせよハイデッガーの結論には受け入れ難いものがある」
と書いてあるけれど、ぼくの「予感めいた思考」はそれを受け入れてしまったみたいだ。


でも、ことばの上ではもちろん、
ちんぷんかんぷんなんだ。


「決断することによって自由を実現する」というのは、
なんか、「・・・そうですよね?」と反応してしまうくらい、
受け入れられたように思えたのだけど、残念ながら、
その予感めいた思考はまだ、ことばにならない。


本を閉じて、個人的な哲学に取りかかる時間は、
なかった。本屋さんに行って、仕事をした。

 ハイデッガーはここから、もはや気晴らしが不可能であるような、最高度に「深い」退屈について考えようとする。退屈の第三形式である。
 いったいそんなに「深い」退屈とはいかなるものだろうか? ハイデッガーはそれについてこう言う。私たちは多分それを知っている、と。
(p.243)


帰りの電車ではもはや、予感めいた思考は息絶えており、
第六章の途中でぼくの意識は夢に迷い込んでしまい、
夢の中では、娘がしきりにぼくを叱っていた。
近鉄奈良駅に到着していた。


届いた。
河合隼雄長田弘子どもの本の森へ』(岩波書店


以前にも図書館で借りて読んだ本。こないだ、
『ふたりのひみつ』が載っていると勘違いして、
手元に置いておきたいと、Amazonでポチしてしまった。
次の日くらいに、気づいた。


『ふたりのひみつ』が載ってたのは、
『子どもの本を読む (講談社プラスアルファ文庫)』*1だった。


それはもう、持っている。