迷子のセレンディピティ

乱読のセレンディピティ


5才の女の子、迷子。
お父さんを一緒に探す。
めちゃめちゃ泣いている。
手をつないでくる。


なんとか落ち着かせようとする。
館内放送したり、店内を一緒に探し歩いたり。
じっとしていられない。不安でたまらないのだろう。
そのうち、ひょっこり現れた父親に駆け寄り、また号泣。


そのおとっつぁん、「え?探してたの?」って、
そりゃないぜ。自分の娘、いま、どこでどうなってるのか、
もうちょっと気にしておこうぜ。と思って、女の子の背中に、
さようなら。振り向きもしない。こちらも、しごと、しごと。


あと数年して、自分の娘が5才になって、
一緒に本屋さんに行ったときのことを想像して、
少しだけ、ヒヤリとする。


車中のとも。
外山滋比古乱読のセレンディピティ』(扶桑社)


これを読みながら、つくづく自分は、
自分に耳触りのいい文章ばかりを求めているんだなぁ、
と思う。「いま、共感できる考え」に頷き、首をかしげると、
意に沿わない文章はツルツルと耳から滑り落ちてしまう。


乱読、ってのは、耳触りがいいものも悪いものも、
どんどん手に取って読んでみよう、ってことなんだろうか。
嫌なら途中で放り出せ、ってなことも書いてあるから、
結局は、耳触りがいいのばかりを読むことになるのか。


自分を励ましてくれるような本を読みたい、と思う。
そう思っていることが、恥ずかしくもある。


でも、小説なんかに関しては、「励まし」とかは求めていないな。
あんまし読んでないけれど。静かな感じのが、いいな。
すぐに名前が浮かぶのは、長嶋有堀江敏幸か。
村上春樹も、読むな。でもどの作家も、新作を待ち望む、
という感じではない。旧作を、ちょいちょいつまみ読む。
しかも、再読したりもする。ぜんぜん、読み増えていかない。


ま、本の読み方なんて、人それぞれですからね。
あたしは、オカタケ師匠の文章に励まされながら、
自分勝手に本を読んでいくことしよう。