気になるヨシオ、片岡義男。

本 2014年 02月号 [雑誌]


今日はお休み。
ツイッターで雑誌周辺から響いてくる悲鳴を聞くにつけ、
背筋に冷たい汗が走る。もう少しさかのぼると今度は、
真央ちゃん絶賛ツイートの嵐。そうだったのか。
ゆうべはふつうに、12時すぎに寝てしまった。
あと少し起きていればなぁ、とはあとの祭り。


洗濯機が止まるまで、ぱらぱらと。
休日のとも。『本 2014年 02月号 [雑誌]』(講談社
宇田智子「ほんの序の口」、石田千「ラジオとえんぴつ」、
二宮清純「新日本野球紀行」と読み進めてゆく。
金平茂紀の「『筑紫哲也NEWS23』とその時代」も。


昼過ぎに、家を出る。温かいが、雪はまだ少し残っている。
『なら記紀・万葉名所図会−古事記神様・人物入門編』を、
奈良市観光センターにてようやく入手。その前に県庁4階にも行ったが、
特に来客者が声を掛けられそうなカウンターもなく、ごそごそと、
勝手にチラシ類の詰まった棚を物色するも断念したのだった。


その後、急遽決まった東京行きの準備を整えて、
鍼までの時間をミスドで過ごす。


ミスドのとも。
『BOOK5』(トマソン社)


なんとなく、後ろのほうから順番に攻める。
編集後記、執筆者一覧。オカタケ師匠の「趣味らしい趣味はなく」に、
笑ってしまう。「もっぱら古本屋通いに勤しむ」って、それが趣味でしょ!


つぎに、玉川学「片岡義男の多面体」、面白い。
知っている書名がときどき顔を出すと、やはりくっとひきつけられる。
日本語の外へ*1、『英語で言うとはこういうこと』*2、『東京のクリームソーダ*3


僕はあまり片岡義男の小説には興味を持っていなかったが、
「タイトルに『東京』の入った写真(文)集」はわりと気になっていて、
何冊か持っている。実家におきっぱなしなので、その程度のアレなのだが・・・。
雑誌『MOTONAVI』の片岡義男特集*4は、自分で棚に面陳したのを覚えている。
「異業種から参入した版元や、新しい出版社からの刊行が目立つ」という指摘も、
たしかに、そのような印象を受けていたので、ふむふむむ、と読んだ。

最近は片岡本をあまり新刊書店で見かけない、との声もあるが、実際にはその展開と需要は多方面にひろがっているのだ。ヨシオの「いま」を読まない手はないと思いますよ!(p.56)


続いて、川合雄高「“片岡義男本事件”ある書店員の格闘と葛藤」を。
面白い。夏葉社さんの『冬の本』*5が出てきて、嬉しい。実際ぼくも、
『冬の本』の片岡義男の文章は、読んでいて「うおっ」と思った。
なんども登場するあやしいおじさんも、非常にチャーミング。
川合さんは、「公私混同タイプ」の書店員ということで、
実際の仕事に義男を混ぜていっている様子が語られる。
羨ましい、僕も混同していきたい、と思ったが、
こういうのは、目指さなくても混同しちゃっているもので、
わざわざ憧れている時点で、アウトであろう。


井上到「これから片岡義男を知ろうとする人のために」を読む。
「ある時期に異常に売れた人たちに共通の『過去の人』なんてレッテルが
片岡義男に貼り付けられていることにうんざりしている」(p.33)
という部分があり、あぁ、僕が片岡義男に感じている、
何かうさんくさい雰囲気とは、このレッテルのことだったか、
と気づかされた。言い訳めいてしまうが、僕が貼ったわけではない。
書店で、いや、古書店で、特にブックオフの棚で見る背表紙に、
見えないレッテルが貼られているのを感じて、いつの間にかそれを学習し、
結局はたぶん、僕のなかでもレッテルを貼るようになってしまったのだろう。


とはいえ、いい訳めいてしまうが、さっき言ったような、
「タイトルに『東京』の入った写真(文)集」(by玉川学)には、
そういうレッテルは貼らなかったし、貼られてもいなかったように思う。


井上さんの文章は、知らない人に自分の好きな本をオススメするときの、
なんというか、とてもすばらしいスタイルを確立しているように思った。
ぼくには、井上さんにとっての片岡義男のような存在はいないけれども、
もしもぼくが誰かに「これからオニャオニャを知ろうとする人のために」
という文章を書くとしたら、戯れに、この井上さんの文章を書き写して、
片岡義男」と「オニャオニャ」を逐次置換するところから始めてみたい。


「ここさいきん」を読む。善行さんにオカタケ師匠。
林哲夫「解けない詰将棋」良かった。


わりとゆっくり読んでしまったので、小走りで、
近鉄奈良駅を目指す。いつだってぼくは小走りだ。
走った甲斐あって、余裕をもって駅に着いた。
珍しく、落ち着いた気持ちで歩く。


ときどきは、こういう落ち着いた時間が必要だよなぁ、
と思う。


帰りの電車で、再び、『BOOK5』を。
古書赤いドリル那須太一「なんてひどい店なんだ」読む。
連載コラムが特集にちなんだ内容をぶつけてくるの、好き。
他の例を思い出せないけれど。小学校6年のときに片岡義男ブームが来て、
学校で見せびらかしていた那須さん。けれども、「小説はどれを読んでも
つまらなく、その後も片岡義男は何冊も買ったけれどいつまでたっても
面白くなる日は来なかった」(p11)とある。な、なんて正直なんだ。


この部分が気になったのは、「片岡義男特集」の雑誌のなかにあって、
「だいじょぶなんスか?」というほどに正直さが輝いていたからでもあるが、
もう一つ、なんだか、ぼく自身がいつか抱いた感想のような気がしたからなのだ。


ちゃんと思い出せないし、一編の短編すら読み通したことはないのだけど、
「小説はどれを読んでもつまらなく」という感想は、ひどく懐かしく響く。
片岡義男のつけるタイトルは、けっこうグッと来るものが多いのだが、
書店でぱらぱらしたときに、どうにも釈然としないで棚に戻したことが、
何度もあったような気がする。川合さんの文章で引用されていた、
「かき氷」の話にしてもそうだ。「僕」(片岡義男なのかどうかは不明)が、
いろいろ思案した末にいきついたフレーズ、それがぼくには気に入らなかった。
そのフレーズ以外がとてもよかっただけになおさら、「なぜそのフレーズに」、
と残念な気持ちがバチンとはじけて、みみずばれができてしまうのだった。


那須さんは、「一方で、映画『スローなブギにしてくれ』は齢を重ねてから
どんどん好きになっていった」という。「70年代に青春を送ったわけでもないのに
『嗚呼あの頃の東京はよかった』なんて感慨を抱き」というあたりも、
同じような気持ちになりそうな気がする。観てみたいぞ、ブギ。


途中までしか読んでいないのだが、堀江敏幸の文章の中に、前述した、
ぼくの感じる「釈然としない違和感」と関係がありそうな箇所があった。

片岡義男片岡義男たらしめているのは、習得した言葉でなにを描くかというより、むしろその言葉をどのように選び、どのように観察して、どのように自分との距離を構築してきたかという、表現の半歩手前の言葉との身体的な関係性が、そのまま主題になっていく直接性にあるのではないか。しかもそれは、生来の感覚という以上に、当人が明確な意図を持って磨きあげ、完成させたひとつの文法とも呼びうる思考法であり、片岡義男の「小説」とは、じつは「小説」であって「小説」ではない、その文法の応用なのだ。(p.20-21)


この「生来の感覚という以上に、当人が明確な意図を持って磨きあげ」という感じが、
ほんとに本屋でぱらぱらした程度の感触で申し上げてしまうのはアレなのですが、
確かになんかそういう意図的ななにかを感じる気がして、その意図的なところが、
なんかひっかかるんじゃないかと、いま、思っている。なんというか、
わざとぼくの気持ちのいい感じをはずされているような、「ヨシオのイジワル!」
みたいな、そういう気持ちになるのかもしれない。


なんだか、ずいぶんとおしゃべりしてしまった。
明日は、今日の大量入荷雑誌とたたかってくれた先輩たちの、
屍を拾いにいかなければならない。


(・・・なんてひどいことを口走っているのだ、俺は。)


(・・・でも消さないのね、あなた)


今度、本屋さんで片岡義男の気になる本を見つけたら、
手にとって、きちんと目を合わせてみよう。


そうそう、念のため書いておくと、今年最初に購入した本は、
2冊のうちの1冊だけれども、片岡義男の本だったのですよ。
片岡義男ブックストアで待ちあわせ (新潮文庫)』(新潮社)