誰かと、本の話をする。
読了。
松岡正剛『多読術 (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房)
「自分で買ってきた本を学級文庫として教室に置いてよろしい。その本代は学級費から出してあげる」(p.31)
本というのが世の中の痛快な交差点になっているという印象を強くもっていた(p.33-34)(本文傍点)
多くの人が読書で一番気になるのは、「どうもアタマに入らない」ということ(p.73)
本は、すでにテキストが入っているノート(p.86)
本棚がカセットデッキ(p.117)
本はいろいろな読み方をするべきで、つまりは平均的な読書を求めてもダメだということですよ。ゆっくり読んでもいいし、お茶漬けをかきこむように読んでも、何人かで感想を言いあうために読んだっていいんです。いや、むしろそのようにギアチェンジをしてでも、多様な読み方をするべきですよ。(p.125)
ぼくは何かのおもしろい本に出会うと、その本の中から別の本につながっていくことに夢中になってきたわけです。まあ、タコ足配線みたいなものですが、いいかえればインターテキストに入っていくことが好きだったわけです。それこそが「本から本へ」で、結局、そのつながりの本を次々に机に積んで読んでいくので、何冊か同時に読むというふうにもなるわけです。(p.152)
何かたくさんの本とネットワークしていく可能性をもった、いわば「光を放っている一冊」というものが必ずある(p.152)
私たちは本に攫われていいんですよ。それでしばらく行方不明になってもいいんです。捜索依頼が出たら、本望です(p.169)
狩野亮吉(p.173)
多くのソフトでは、知識や情報はピンポイントに引っぱり出されるために、自分がどのように「知の構造」と向きあっているかは、わからないんです。それを知っているのはソフト制作者とプログラマーで、ユーザーは「便利な検索」というユーザビリティを優先提供させられているぶん、その構造にはまったくかかわれない。(p.184-185)
こんな学級文庫があったら、めちゃめちゃうれしいだろうに。
どうもアタマに入らない、というときは、苦しいね。
この本でも、何箇所かありましたね。そこをどうするか。
傘も差さずに駆け抜けるか。引き返すか。
本をノートのように使う、っていうのはいいね。
小説でない本は、そうやって使い倒すのがいいね。
いっそ、ノートみたいな造本にしてはどうだろか。
本棚がカセットデッキ、アナログ!!
「べき」というのは気に入らないが、まあ、
いろいろな読み方をしてもいい、ということね。
しなくてもいいんだけどね。読まなくたっていいんだから。
とかいうと、齋藤孝あたりからクレームくるかな。
狩野亮吉って、ぜんぜん知らなかった。気になる。
気にとめておこう。かのうこうきち。シソーラスは、
学生のころに読んだ本で薦められてて、ながいあいだ、
誰の本だったか思い出せなかったんだが、たぶんセイゴオだ。
夜は、相方と本についてのブレインストーミング。
セイゴオさんの、ノートとしての本、というとらえ方を、
発展させてみた。夢想。面白い。内沼晋太郎も、
こんな感じでアイデアを転がしていったのだろうか。
誰かと本の話をするのは、楽しいです。