本屋の存在が意識されるとき

「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)


夢に、長谷川書店の長谷川稔さんが出てきた。
東京駅で終電は出てしまったあとで、僕は、
浦安へ帰るための深夜バスを探した。
長谷川さんは、どこへ帰るのだろう。


車中のとも。
鷲田清一「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)』(筑摩書房

〈聴く〉というのは、なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。(p.14)


今度、初めて一緒に飲む機会がある人に対して、
話すのではなく、「聴く」ことができたらな、
と思っている。


詩と哲学が、比較されていた。おぉー、と思った。
写真のことも、思った。植田正治の写真が本文中にも配置されている。
そこに、「読書」とメモ書きを添えてみたくもなる。
話すこと、聴くこと。「悲しみ」とつぶやいても、
違和感はないだろう。読むこと、書くこと、
と続けたら、なんのことはない。
若松英輔の、受け売りだ。


ふとTLに目をやると、若松センセイが、
ビシバシつぶやいている。RT。


「胃の存在、あるいはことばの存在は、それがうまく機能しなくなったときにはじめて意識されるからである」(p.27)
という文章もあった。本屋の存在、と代入したくなる書店員は、
私だけではあるまい。