本読みの秘儀
小走りではいかんともしがたい時間に、
家を出た。乗りたい電車の去ったあと、
次に発車する電車に乗りこんでから、
入荷の少ない今日の送品表をにらむ。
そうして、表紙カバーを外した、
グレーの小さな本を開く。
車中のとも。
若松英輔『若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義』(ナナロク社)
集中して本を読めるようにと思ったのか、
読者カードを本の一番最初にはさみ直そうとしてふと、
「本を手にとってくださったあなたはどのような方ですか」という問いに目がいく。
例には「映画好きの会社員で主婦です」とあった。会社員で主婦ですか。
「会社員で主婦です」というフレーズが、
思いのほか、長いこと、頭の周りを回っていた。
やがてようやく、「はじめに」を読みはじめる。
最初の見開きだけで、もう、おなかいっぱいになる。
並んでいる文章のほとんどが、肋骨と胃のあたりを縫い合わせるように刺さってくる。
人生の問いと深く交わろうとするとき私たちは、文字を超えた、人生の言葉を読み解く、内なる詩人を呼び覚まさなくてはならない。(p.5)
思わず本を閉じた。
本を閉じないと、自分の中に生じた何かが失われそうに思った。
遅かれ早かれ、その何かは失われるのだろう。それでも、今、
手の中に生じたこの感覚、それをもっとよく見ておきたい。
それには、いったん立ち止まる必要があるように思った。
もう一度、本を開く。「祈ることと、願うことは違う」とある。
祈りは、どこにある?再び、本を閉じる。また開く。分からない。
あっという間にその「何か」を見失ったので、
ひとつ目のエッセイ「悲しみの秘義」を読む。
ふたたび、手の中に何かが生じた。
今度はもう少し具体的な何かだ。
本を閉じて考えるべきことが、目の前に浮かんでいた。
逝った大切な人のことだ。
勤務時間は、大過なく過ごす。
退勤後、耳鼻科に寄る。
通院、終了。
車中のとも。
若松英輔『若松英輔エッセイ集 悲しみの秘義』(ナナロク社)
なぜだろう、この本に対しては、おおげさな気持ちを抱いてしまう。
なにか、もったいぶった気持ちになってしまう。もう一度「悲しみの秘義」を読み返す。
S君、あなたに出会えてよかった、そう思いながら、近鉄線に乗り換える。しばらくは、
鞄に本を入れたままにして、けれどけっきょく、灰色の、小さな本を取り出した。
「見えないことの確かさ」、本との出会い、個人的な「事件」についての文章に、
深くうなずき、思わずあたりを見まわし、ケータイの画面に文字を連ねそうになって、
いや、だからつまり今のこの「事件」が個人的なんだって若松さんはおっしゃってるんだろ?
続いて、「低くて濃密な場所」を読む。
読むことは、書くことに勝るとも劣らない創造的な営みである。作品を書くのは書き手の役割だが、完成へと近付けるのは読者の役目である。(p.22)
「眠れない夜の対話」を読む。眠れないという知人に渡してあげたい文章だ。
「だが、人からもらった本にはなかなか手が伸びない」(p.15)と、
若松さんも先ほどおっしゃっていたので、そうだね、
この部分だけ筆写して渡してみたらどうだろうか。
それにしても、本文の上下のラインが素敵。
装幀は、名久井直子。
そうなのだ。この文章だけがいいのではない。
この本の、このたたずまいの中に立ち上がる文章が、
いいのだ。いや、ぼくが手書きで書き写しても、
この文章のよさはまた別に立ち上がるだろう。
けれど、それはもう別の文章、いや、だから、
さっき若松さんに教わったアレだよ、
事件は個人的であるのだから、
読み手が変われば本も変わる。
もっと言えば、読み手が「同じ」でも、
読み手の気分、コンディション、年齢などが変化すれば、
その本も「同じ」ではなくなるだろう。そう考えていくと、
「面白い」と思えるコンディションの時に読めるというのは、
奇跡的なことなのかもしれないな。
昨日、妻に対してS君への想いを説明したことが作用して、
今日、「悲しみの秘儀」は、こんなにも強く僕を揺さぶったわけで、
もしも、一昨日のやさぐれた酔頭で読んでしまっていたならば、
あるいは、まったくこころにとどまらなかったのかもしれない。
ああ、よかった。
今日この本に出会えて、よかった。
S君、あなたに出会えて、よかった。