岩波新書で原民喜に会う

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)


上の子の機嫌が悪い。
そうすると、下の子が、少しマシ。
でも、少しだけ。甘えん坊は下の方。
すぐにまた、ぐずぐず言い出す。


上の子は、たいていいつも我慢。


小雨の中、自転車で下の子を保育園へ送り、
帰りはなかなかの降りに負けずペダルを踏む。
今日は室内干し、しょうがないね。大きめのタオルだけ、
『濡れませんように』と祈って、ベランダの手前の竿に干す。


あと少し、懸念される書類仕事があるけれど、
わずかに余った発車前の時間に気づくと本屋さんに寄ってしまう。
さっそく、目当ての冊子を見つけて、ではこれをいただくときに、
合わせて購入する本を選ばねば。出来れば岩波新書がいいな、
と棚を眺めるも、決め手に欠ける。ふと平積みに目をやれば、
そうそう、この岩波新書らしからぬ肖像写真を使った全帯。


購入。啓林堂書店奈良店。
梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店


乗ろうと思っていた電車は、階段を駆け下りる途中で、
ドアを閉めた。ま、しょうがないね。冊子を読もうと、
袋の中から、まずは新書を取り出して、鞄にしまって、
そうしてゆっくり冊子を読もうと思っていたのだ。
その前に、ちょっとパラパラするつもりだったのだ。


車中のとも。
梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店


死と愛と孤独。梯さんは、
そのことばの通りに章立てしている。
ぱらぱら読むつもりが、ぐっと掴まれてしまった。
序章を読み切った。「よし、読むぞ!」という気持ちが湧く、
最高の出だし。でも、ここでいったん、ページを閉じる。

死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮かび上がることがある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった。この伝記を彼の死から始めるのはそのためである。(p.14)


降りる駅も近づいていたので、めあての冊子は、
駆け足で。『図書 臨時増刊2018 はじめての新書』。
「はじめに」で岩波新書編集長永沼浩一氏のことば。
その右側のページには、岩波新書以外も含めた、
いろんな新書の表紙の写真が薄く印刷されている。


目次には、ずらりと人名が並ぶ。辻山良雄、
津野海太郎などの並びに、読書猿の文字を見つけた。
もう少し左には、「猫の泉」という表記もある。
「山下ゆ」という人は知らないが、気になる。
「ゆ」って。ペンネームかしら。


この冊子の構成は、前半に「はじめての新書」というテーマで、
エッセイというか、文章が集められている。松岡正剛のとこまでは、
著者の写真も掲載されている。どうして全員の写真がないのかしら。
冊子真ん中くらいからは、「『はじめての新書』読書案内」と題して、
具体的な新書の紹介がずらり。各人三冊。みすずの読書アンケートみたいな。


冊子最後には、岩波新書以外の、各出版社の新書編集長たちが、
「はじめて読むなら、この新書!」という文章を寄せている。
岩波新書創刊80年記念のこの冊子、単に岩波新書のことだけを喧伝するのではなく、
「日本の新書」という視点で編集している姿勢に好感が持てる。貫録も感じる。
もちろんそれは「岩波新書が日本の新書を代表している」という自負でもあろう。


格闘中の書類とは別に、あちこちと、
対処すべき「問題」が湧いてきては右往左往したが、
ここ最近のなかでは比較的、うまく対応できたような気がして、
帰りの電車を待つまでのわずかな時間にセブンティーンアイスを買ってしまった。
そのくらいには、解放感を感じることができた、ということだろう。
よかったね。


車中のとも。
梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店


「死の章」を読みだす。『幼年画』というタイトルが出てきた。
これは、何年か前に刊行されて、その造本は素敵だな、と思ったものの、
原民喜になんの関心もなかったのでスルーしてしまったやつではなかったか。
もう、発行元すら思い出せない。そんな記憶のもやもやを、
頭の後ろにひっかけて読み進める。