死んだふりでハガキ

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)


風邪気味である。
昨日、手持ちの懸案事項をひと通り片づけ、
今日は多少、余裕を持って出勤できる、
という油断もあったのだろうか、家に、
作成した書類を置いてきたことに、
駅へ向かう途中で気づき、引き返す。


今日は、今日こそは、
このしんどさをしっかり身にまとって、
死んだふりをして過ごそうじゃないか。


電車のシートにどさりと体を預けて、
iPod で世田谷氏の歌を補給する。
しんどいときは、世田ポン一択。
思っていた以上に疲れが出て、
ぐっすりと眠ってしまった。


店に顔を出す前に、コーヒーでも飲んでいこうか。
食欲はなかったが手持ち無沙汰な感じもあり、
甘いパンをふたつほど合わせて求める。


コーヒーのとも。
梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店

四十歳を過ぎた大人と小学生の女の子が、互いの孤独を分け合うようにして飲み屋の隅にいる。そこにはあたたかなさびしさとでもいうようなものが充ちている。(p.54)


あたたかなさびしさ、というのは、不幸中の幸い、
みたいなものだろうか。


不幸中の幸い、と聞くと、つい、求めてしまう。
今、幸いのない不幸中なら求めても構わないが、
幸い欲しさに不幸を探しに出かけてしまいそうでこわい。


僕は、たぶん、不幸ではない。
そこを間違うと、不幸になる。
それこそ、幸いのない不幸になる。


こないだ届いた嬉しいハガキに返事を書く。
他にも、返事を書けていなかったハガキがあったので、
もう一枚、書く。ハガキを書く時間というのも、読書に似て、
日常の慌ただしい空気を緩ませてくれるありがたい時間だ。


書類仕事がなくなると、目を背けていた他の仕事が見えてくる。
課題は山積みだ。一緒に働いているスタッフの表情にも、
目が止まる。笑顔がひきつっている。ギリギリか。
手に入れたばかりの「余裕」は空回りして、
単に空元気で口先ばかりの励ましを投げかける。
顔なじみの営業さんが訪ねて来てくれて魂を回復する。


スタッフがみな帰り、店にひとり残り、手のつけられていない、
書籍&雑誌の返品の山と対峙する。全て投げ出して帰るにはまだ早いが、
山を背負って海に歩み出すには時間がない。「なぁんのこったらやまぁ」と、
気張るほどの気力もなく、粛々と、書籍の山をストックに移し、
雑誌をダンボールへ詰め込み始める。時計の針と、
残りの雑誌の高さとを見比べながら、
切りあげ時を見極めて、小走り。


異動して一か月あまり、とうとう終電の準急で帰ることになった。
準急ではかったるいなぁ、とも思っていたのだが、TLを追っていたら、
近鉄奈良まで帰ってきていた。あわよくば『原民喜』の続きを、
などと思っていたのだが、意外と早く着いてしまった。


妻から頼まれていたペットボトルの飲み物を買いにセブンイレブンへ。
ついでにホットココアを買った。なぜかサンドイッチも買ってしまった。
明日は休みだ。危ない。休みの前の日だからといって夜ふかしすると、
翌々日に確実に響いてしまう。危ない。シャワーを浴びて早く寝ろ。


サンドイッチのとも。
『本を贈る』(三輪舎)


牟田都子「縁の下で」を読み出した。
鹿子裕文さんの著者校のコメント、面白い。
今さらながら、『へろへろ』を読みたくなるなど。