名もない走者の長い一日
昨日買った雑誌が、驚いたことに、
家にもあった。交換を申し出れば、
おそらくは交換してもらえるだろうが、
お店が開く前にもう、出かけなければならぬ。
客注品の受け渡しのため出勤前に、
以前の職場に向かうのだ。
車中のとも。
梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店)
原爆は人類史上に残る惨劇であるゆえに、それを語る声は高くなりがちである。言葉には熱狂が宿り、政治性をおびる。だが原の声はあくまで低く、言葉は静かである。(p.173)
妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無惨さは原を打ちのめしたのである。(p.185)
昨日は、奥さんを亡くした後に原爆なんて、
という思いがあったけれど、その順番というか、
そういう巡り合わせもまた、原のことばが後世に、
原爆に遭った人の様子を語らせることになったのだな、
と、今日になって、思う。だからよい、ということでは、
もちろんないのだけれど。
「夏の花」が、水上瀧太郎賞を受け、
その受賞者挨拶の情景は、感動的だ。
そうして、残された時間は二年あまり。
続いて、遠藤周作との友情についての記述が始まる。
これもまた、原さんの人生の中で、温かな部分と言えるのではないか。
217ページの、遠藤周作(樹上)というキャプションに笑う。
いや、写真自体も、なかなかに微笑ましいものだ。
一見明るく社交的な遠藤の中に、「突然、全てが阿呆らしく」なるような醒めた虚しさがあることに原は気づいていた。そしてそれが若い祐子を傷つけることを恐れたのだ。(p.223)
祐子という女性、遠藤周作、原民喜。この3人の、
不思議な邂逅。不器用な原が、けれど遠藤周作に対して、
祐子に対して投げかける眼差しは、温かく頼もしい。
これまでにも本を読んで、誰かの人生に身もだえしたことがあったはずだが、
原民喜のこの本には、本当に。文学上の価値は措いておくとして、
生活者としてはあまりにも不器用だった原が、にもかかわらず、
あるいは、その不器用であったればこそなのか、周囲の人に、
何がしかの「力」を与える存在だったという状況は、
僕自身の勝手なあれではあるのだけれど、
「あぁ、僕も誰かのために少しでも役立てたらいい」、
「少しだけ、本の少しだけだっていい、少しくらいなら」
と、人生に対して前向きな姿勢を取り戻す励ましをくれた気がするのだ。
僕は、僕が親切にした誰かの命が、さらに誰かの命を温めて、
そういう温もりのリレーの、名もない走者のひとりになれたらそれでいい。
それで十分だ。原さんの人生を紹介するこの岩波新書を、僕も大切に紹介してゆこう。
誰しも喜ぶ味が存在しないように、この本がしみるヒトもしみないヒトもいよう。
僕はただ、この世にもうひとりかふたりいるだろう、僕のような人間に、この本を差し出そう。
購入。
桐光学園、ちくまプリマー新書編集部『続・中学生からの大学講義2 歴史の読み方 (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房)
桐光学園、ちくまプリマー新書編集部『続・中学生からの大学講義3 創造するということ (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房)
藤谷治『小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房)
こないだと同じそば屋で、同じかつ丼セットを食べる。
食べ物屋は、同じ店が楽だ。同じメニューが、楽ちんだ。
『新潮』の新しい号を求めて、ジュンク堂難波店をのぞく。
TLで見かけた、「新潮クレスト・ブックス」の冊子*1も、
難波ジュンクならあるような気がする。
案の定、『新潮』も、クレスト冊子もあった。
この蔵書量、質を維持して回していくのは大変なことだ。
こういうお店があることで、リアル店舗としての「本屋さん」の、
魅力の一端が現在していることを感謝しなくてはならない。
自分の勤め先は、また別の在り方を追求するにしても、
「本屋」として、勉強になることは間違いない。
購入。ジュンク堂書店難波店。
『新潮 2018年 11 月号』(新潮社)
原民喜『夏の花・心願の国 (新潮文庫)』(新潮社)
『本屋図鑑』が取り上げられているという『書標2018年10月号』も入手。*2
読了。
梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)』(岩波書店)
良かった。あとがきも、良かった。
悲しみのなかにとどまり続けること。それは、辛いことだろう。
なかなかできることではない。悲しみのなかにとどまりながら、
弱く小さく発せられた原の声に、耳をかたむけてみよう。
車中のとも。
原民喜『夏の花・心願の国 (新潮文庫)』(新潮社)
「悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない」(p.18)
この、三人称による、かもしれない文。
原さんの執筆時の精神を思う。文章は、
太宰治とは、ぜんぜん違ったな。
「苦く美しき夏」、良かった。
小学生の頃だったか、詩のアンソロジーみたいな本で読んだ原爆の詩を書いた詩人、
としての原民喜が、ぼくにとっての原民喜だった。梯さんの本を読むまでは。
あれは、高田敏子『詩の世界』(ポプラ・ブックス)だったろうか。
演出でなく、おそらくは印刷のかすれだったのだと思うが、
オーオーオーとかいう叫びのところの字がかすれていて、
死にそうな人のかすれた声に思えて怖かった記憶がある。
新しく登場した原民喜という頼もしい先人の後ろ姿を遠くに眺めながら、
小走りで、バトンをつなぐ。本屋という灯りと、小さな親切と。