アキラの人のこと
その人のことを妻に話すとき、
「アキラの人」と呼ぶことになっていた。
勤務初日、ひとりのおばあさんに、
「あのテレビによく出てる人の本、あるかな」
と尋ねられた。「名前は忘れた。なんとかアキラ」
「男性ですか?女性ですか?」「おとこ」
今となれば落ち着いて、寺尾聰、にしきのあきら、
北斗晶、AKIRA(大友克洋)などさまざま思いつくが、
右も左も分からない売り場で手がかりは「アキラ」のみ、
校庭をダッシュで10周したくなるほど混乱したのをひた隠し、
「少々お待ちください」ととぼけてレジへ向かう途中、
その人が現れたので聞いてみる。
「あの、お問い合わせで、あの、下の名前がアキラっていう・・・」
「イケガミアキラさんですかね」即答された名前が脳に届く前に、
その人はおばあさんを連れて新刊台の方へと去っていった。
漢字で「池上彰」と書かれてあればあの優しい笑顔も浮かぶのに、
いざ読んでみろと言われたら、もしや読めていなかったかも。
「イケガミアキラ」という響きは、ぜんぜん馴染んでいなかった。
おばあさん、なにゆえ「池上」より「アキラ」を覚えていたのさね。
アキラの人が優れていたのは、商品知識だけではなかった。
好感接客、丁寧な後輩指導、同僚とのコミュニケーション、
お客さんの顔を覚えていての素早い対応、唸るしかない。
けれど、これ以上、並べ立てても仕方ない。彼女は引退する。
冗談交じりに、「5000人のお客さんがいなくなりますね」
と言ったほど、アキラの人の接客が心地よくて来店したお客さんが、
たくさんたくさんいたであろう。この先、一緒に働けないのは、
非常に残念であるが、今はせめて、その姿勢を倣って笑顔を作る。
2008年の夏、僕の尊敬する人が本屋さんを引退して、
彼の本屋さん魂の行方を案じたことがあったが*1、
まさか再び自分が本屋さんのカウンターに立つことに
なるとは思わなかった。あの夏のバトンと、アキラの人の笑顔を、
誰かに手渡すその日まで、僕は精一杯、やろうと思います。
それでもって、いつかどこかの本屋さんで、
またアキラの人が復帰する日が来たら、とても嬉しい。
ひとまずは、お疲れさまでした。ありがとうござりました。
読了。
野坂昭如『エロ事師たち (新潮文庫)』(新潮社)
このなんとも言えない幕引きには、
呆然としてしまいました。面白かった。
ただ、車内で読んでいるとき、隣りにお子さんが座ったとき、
思わずカバンにしまってしまいました。オトナの本ですから。