奈良でだって、わざわざ買いに行きたい本

それなりに早く目覚めて、
余裕を持って家を出る。交差点の向こうに鹿。
神々しい、とか、かわいい、とかいうことばが浮かび、
けれど、こないだの青木さんの狩猟免許の話を思い出し、
ひとによっては、憎々しい存在でもあるのだな、
とことばを飲みこむ。


車中のとも。
木村俊介『善き書店員』(ミシマ社)

書店員としてどうのこうのという前に、もっと接客の部分を大切にしなければと思うようになったんです。この仕事の中で、もしかしたらいちばん大事なのがこの接客なのではないか、と私は考えています。(p.143)


藤森真琴さん(廣文館金座街本店、当時)のことば。
こうべをたれる。


退勤後、TLをさかのぼりながら、
ちょいちょい現れる「わざわざ行きたい本屋の本」の情報が、
ざわざわとぼくのこころを騒がせる。途中下車して、
わざわざあの店に行ってみようか。数日前、
PCで在庫の確認はしてある。そのときは、
さんかく印で、在庫は1〜2冊、とあった。
今、このガラケーからでは在庫確認は不能
そんなガラケー拒絶のあの店に、
わざわざ足を運びたいか。


いえす。


本の本のコーナーに直行、背表紙に目を走らせる。
知ってる本、知らない本、気になる本が次々と目に飛び込んでくる。
しかし、「わざわざ本」は、ない。もう売れたか、あるいは、
店員が取り置きしてあるんじゃないだろうかと疑う俺。
検索機で検索してみて、現在庫の有無を確認すべきか。
と、そのとき、ガイド本のコーナーにあるんじゃないか、
という考えが頭に浮かんだ。もしかしたら、店に入ってすぐ、
「地図・ガイドはこちら」的な看板が視界に入ったのが影響したのかもしれない。


あるはず、あるはず、となぜか確信を持ったまま、
背表紙を目でかきわけていけば、あった。A5ソフト、こいつか!
せっかくだからと、いくつか探していた本も買っていこうかと、
今度は検索機を使ってみるが、そちらは在庫なしでした。
検索機のいいところは、本の所在位置を示してくれることでなく、
「それはないから探さなくていいよ」と教えてくれることである。
(あるって言ってないこともあるからね)


購入。ジュンク堂書店奈良店。
和氣正幸『東京 わざわざ行きたい街の本屋さん』(ジービー)*1


TLにて砂金さんが亡くなっていたことを知る。
どういうタイミングだったか、おそらくは砂金さんのツイートから、
ブログの記事「ありのすさび。」*2を読んだあと、
去年の6月25日に砂金さんにDMを送っていた。砂金さんからは、
すぐに返信があり、重ねてもう1通、DMを送っている。


さっき、ブログとツイートを見直した。最後のブログの記事は、
覚えていた。奥さんと一緒に、帰宅したのだろうか。そうなんだろう。
最後のツイートは、あまり記憶に残っていない。お会いしたことはなかった。
古書肆スクラムは気になっていたが、結局、訪問は叶わなかった。


まだ会ったことがない人だけでなく、これまでに何度も会った人でも、
この先、二度とお目にかからない人である可能性は、十分にある。
「いつか会える」と「もう二度と会えない」との違いは決定的ではあるが、
こちら側にもあちら側にも、彼岸に行くタイミングはいつ訪れるか分からない。
このまま二度と会わないのであれば、「死んだも同然」なのではないだろうか。


そんな風に思ったこともあった。
それは、若くして亡くなった友人や先輩の葬儀の帰り道のことが多かった。


なんというか、ひどい考えかたです。


「死んだも同然」の人々の中から、まずは、かつて交流のあった人たちを、
ときどきは訪問して生き返らせたい、あるいは自分が生き返りたい、
と思う。そうして、まだ一度も会ったことのない人たちとは、
お互いに、誕生する、みたいなめでたい初対面を交わしたい。


亡くなった人との再会は、ぼくが彼岸にゆく日まで、お預け。
あちらでの初対面も、お互いに誕生するみたいになるといい。