「苦しみ」が聞こえない

いつもの時間、6時過ぎに家を出ても、
すっかり明るい。かろうじて朝日は、
若草山の向こうに潜んでいるが、
もう、まぶしいくらいの朝だ。


車中のとも。
鷲田清一「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 (ちくま学芸文庫)』(筑摩書房

苦しみを口にできないということ、表出できないということ。苦しみの語りは語りを求めるのではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。(p.158)


昨日読み終えたところを正確に覚えていなくて、
気がつかずに少し戻って読みなおすことがある。
その、二回読んだところというのが、たまたま、
心に響くような箇所であると、いったい自分は、
前に読んだときにきちんとここを読んだのかと、
ちょっと、不安になったりもするのであります。


自分自身、まぁ、その当時は「地獄の苦しみ」と思ったりもしたけれど、
今になって思えば、それほど大した苦しみを経験しないままここまで来た。
僕が交流してきた人たちの中には、とてつもない苦しみを経た人がいたはずだが、
そしてそのことについて、聞く機会さえあったはずだが、今になって思えば、
それをきちんと「聴けて」いたか、はなはだ心もとない。


この本や、『悲しみの秘儀』などを読んで、
しんとした気持ちになったりもするのだけれど、
その静けさになにか、「偽善」にも似た苦味を感じてしまう。
「お前さん、悲しみも苦しみも、経験してないじゃないか」っていう。
僕自身が経験していないだけならまだしも、誰かの悲しみや苦しみに対して、
知らず知らずのうちに追い打ちをかけるような行為を行っていないか、
不安になる。


「少し、黙っていたらどうだい?」


けれども、こうしてまた、すぐに虚空に話しかけている。
返事が欲しいから。さみしさなら、少しは経験したと言える。