宛先不明の肉声を
少なくとも今は、読んで、生きる意欲が燃えてくる本を読みたいと思う。
こんな風にことばにした途端に、「違うな」ってなっちまう。
読書の傾向とか、言い表すの、意味がないのかもしれない。
読みたい本はそれぞれに固有のにおいで僕を誘っている。
とり、なにがしかのショックを受ける。
本が「読めない」ときにも、買うことができたなら、
それだけで少し、バランスが変わる。
「読めない」というのは、「読みたくない、読んで、読むことによって今の自分の状態を動かしたくない」ということ。
「買うこと」の変化は、なぜだろう、平気だった。
「読むこと」は、少なからず没頭することであり、つかの間、
今の自分を手放すことである。今は、今感じていることから片時も目を離したくない。
同時に、この苦い気持ちを揺さぶりたくもある。だから、本屋に寄らずにはいられなかった。
けれども棚の間を歩いていても、ちっとも買える気がしなかった。
その感じを思い出すと、それは上に書いた「読めない、読みたくない」ということに似ている。
それでも一冊、買った。買えた。それは、その本を「読むこと」から切り離して、
ただ「買うこと」に接続できたから、買えたのでしょう。
「読むこと」から切り離されたその本を、いつか読むことになるでしょう。
そのときの自分は、今の自分とは変わっている。そのことは、確信できる。
今日のことをどれぐらい切実に思い出せるかは分からない。分からないけれども、
きっと思い出す。そして、
(たとえばここで文章が途絶えたとき、直前の「そして」に、なにがしかのニュアンスが立ちこめないだろうか)
そして、時間が経過したことに、安堵のため息をもらすような気がする。そんな気がする。
それまでは、ただ、静かに待っていてください、本よ。
購入。スタンダードブックストア@心斎橋。
ジュノ・ディアス、都甲幸治、久保尚美『こうしてお前は彼女にフラれる (新潮クレスト・ブックス)』(新潮社)
ノートにことばを記して、今の気持ちの、痕跡を残す試み。
変わることを確信しながら、変わることを期待さえしながらなお、
痕跡を残したいのはなぜだろう。今の状態から、どれだけ遠くへ行けたのかを、
後で振り返りたいからだろうか。
本を読みながら、いろいろと自分の体験が思い出されるとき、
その本を、いいな、と思う。ならば今、こうしていろいろと思いが浮かんでいるということは、
この状態を、いいな、と思えるということだ。思いを呼び込む刺激。
胃のあたりで、時計の歯車がカチカチなるような、
そんな気分でことばを並べているのを、遠くからあなたが見ている。
(あなたに、会いたいような、会いたくないような、そんな気分です。)
肉声や、直筆とは違う、パソコン画面上の「文字」からも、
あの日、確かに僕は何かを受け取った。もちろん、宛先は僕だったし、
メディアの違いよりむしろ、重要なのは宛先が自分に向いているかどうか、
なのかもしれないけれど、宛先不明であるからこそ、自分宛てだと信じられることもあるわけで。
僕が芝居にしがみついているのは、そんな宛先不明の、けれど「あなた」に届けたいことばを、
肉声で空間に響かせたいからなのかもしれません。