本を配架するために毎朝

街場の文体論


購入後も、なんとなく手を出せずに、
読みたい気持ちが高まるのを待っていて、
ようやくかばんに入れることが出来た。
電車に乗り込んで、空いている席もあったけど、
あえて立ったまま、内田センセイに挑む朝。


車中のとも。
内田樹街場の文体論』(ミシマ社)


冒頭、クリエイティブ・ライティングの授業の第一回目の語り出し。
学生時代の、4月の記憶がぼんやりと蘇る。N先生の、
クリエイティブ・ライティングを取ったっけ。あの授業も、
かなり人気があって、抽選で受講者が決定されたのだった。


第1講のお話には、なんというか、ビシバシと身にしみる文章が多い。
誰かのツイートで引用されていた文章でも「うわー」と思ったが、
改めて、真正面から叱られたような気分で顔面が蒼白になる。
「とり本屋」で書いている文章は、どうなんだろう、どうなんだろ。


「自分が言ったことを、自分で読んで、喜んでいる。たしかに言葉は滑らかにながれています。でも、さっぱり届いてこない。(p.22)」


やばい。これか?これかもしれない。


第2講で村上春樹の『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』*1が登場。
文庫版*2を買うための、力強い援軍。わーい。


韻文を書くときに詩人はどうやって韻を踏んでいるのか、
という話で、「『バスを待つ』みたいな感じ」というのが、
面白い。バスを待つのは、好きだ。久しく乗っていないな。


チャンドラーの『ロング・グッドバイ』と、
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の話も出た。
『ギャツビー』とは、つい先日、“和解”したばかり。
ロング・グッドバイ*3も再読したいなぁ。実家にあるわ。


第3講では、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』が出た。
これも、すごく面白く読んだ記憶があるが、かなり昔だ。
やはり実家にある。*4どこでもドアで、実家の本棚の前に行きたい。
読みたくなった本を、ひょいひょいと抜き出してパラパラしたい。

よい本にはよい本にしかない力がある。作家が気合いを入れて書いて、編集者が気合いを入れて編集して、装丁家が気合いを入れて装丁をして、営業マンが気合いを入れて営業して、書店員が気合いを入れて配架した本は、その本が書棚に並ぶまで経由してきたすべての人たちの「思い」がこもっている。そういう「愛されている本」というか、人々の輿望を担って、満を持して書店に並んでいる本には、何かにじみ出るような力がある。(p.63)


なんというか、「愛されている本」の形成に「書店員の気合い」をカウントしてもらえて、
鼻の穴から熱い鼻息の柱を二本、ぶおーっと噴出すような喜びを感じた。
これからは、(もっと)気合いを入れて配架しよう、
と思った。配架の気合い!気合いの入った配架!


ソシュールアナグラムの話も面白い。
第6講の途中まできて、駅についた。
夜風が涼しいや。つづきはまた、明日。