子どもの本を欲するおとな

越境する児童文学―世紀末からゼロ年代へ


今日は、仕事お休み。
午前中、妻とふたりで机横に配置する、
棚を作成。娘は妻の背中で眠ってしまった。
木工作業は楽しい。


四六ソフトがぴったり入る棚に、
前後2列でぴっちり格納された。
もう読まないかもしれないビジネス書や、
まだ読んでいない建築の本など有象無象。


棚の上は、妻の机として利用される。
ベッドに胡坐をかいて、パソコンに向かう妻。


読了。
野上暁『越境する児童文学―世紀末からゼロ年代へ』(長崎出版)

この本の書名を「越境する児童文学」にしたのは、九〇年代の子どもの文学の潮流を眺望したとき、これが最もぴったりしていると思ったからだ。児童文学の越境とか、越境する児童文学というのは、七〇年代後半の今江祥智の発言にあったように思う。子どもたちの生きざまに真摯に立ち向かうならば、書き手は全身全霊を掛けて全力投球して語り掛けない限り伝わらない。そのとき、大人の本と子どもの本の垣根は越えられ、つまり両者は越境する。灰谷健次郎の『兎の眼』などの登場を受けての発言だったと記憶している。エッセイ集『夢見る理由』(七八年 晶文社)で今江は、大人の文学と子どもの文学の枠組みの取り壊しについて執拗に言及している。ぼくはその可能性に少なからぬ共感を抱いていた。だから、理論社の大長編シリーズのそれぞれの作品には、大いに刺激を受けた。そして岩瀬成子の『朝はだんだん見えてくる』から始まり八〇年代末から九〇年代に掛けて登場した作家たちの仕事に刮目したのだ。(p.198)


途中、単なる本の紹介リストに感じられて退屈したものの、
何人も、何冊も、気になるものがあってうれしかった。
それにしても、「児童文学」というカテゴリーは、
なかなか難しいものを含んでいるようですな。


気になった本・作家。
伊東寛『マンホールからこんにちは (Best choice〈petit〉)』(福武書店*1
伊東寛『ごきげんなすてご (BOOKS FOR CHILDREN)』(徳間書店
二宮由紀子「ハリネズミのプルプル」シリーズ
吉岡忍『月のナイフ』(理論社


いしいしんじについても言及されていた。
『麦踏みクーツェ』とか、すごいもんなぁ。*2
これは、理論社の単行本で読んだのだけど、
文庫でも同じくらい、衝撃を受けられるだろうか。


あの、子ども向けに作られたような本の造りが、
かえって怖ろしさを増大していたような気もする。
クーツェ、怖かった。面白かった。


今、子どもの本のことが気になっているのは、
娘が生まれたことも関係しているのだろう。
彼女はけれど、まだ何年も「児童書」を読むことはできない。
しばらくは僕自身が読者として、関心を持ってゆくのだろう。


そのとき、「大人の本」ではなく、
「子どもの本」として作られた本に、
特有の魅力があることが、なんとなく信じられる。
「子どもの本」というポジションは、
今なお有意義なのではないか。