ケータイ小説って、なんだ?

車中のとも。
石原千秋ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房


先日、石原先生の「たくらみ」について推察したが、
早くも18ページ目でタイトルについての回答が。
ちょっと長いですが、引用。

ケータイ小説「文学か」」という議論はほとんど無意味ではないだろうか。自ら「小説」と名乗って「小説」に似せて書かれている以上は、そしてすでに書店で書籍の形で売られている状況を考えれば、「文学」としか言いようがないだろう。「二〇〇七年の文芸書年間ベスト五位のうち、四点までがケータイ小説だった」という統計結果の括り方が多くのメディアで流通している現実は、すでに社会がケータイ小説を「文学」と認めたことをよく示している。「ケータイ小説などは文学ではない」と感じるのは、好みの問題か差別の問題だ。
そもそも「文学とは何か」という定義はできない。(厳密に言えば、あらゆるものは定義などできない。具体例が、必ず定義を裏切るからだ。)かつて文学を「言葉の芸術」と呼んだ批評家がいたが、せいぜいそこまでだろう。あとは、その時代にその社会が文学と認めたものが文学なのである。ケータイ小説も言葉で書かれている以上、社会が認めれば文学である。だから、いま僕たちに許されているのは、「ケータイ小説とはどのような文学か?」という問いかけだけであって、「ケータイ小説は文学ではない」という言い方は許されていないと思う。
(p18)


ちくしょう、ほとんど無意味な議論をタイトルにしやがって。
このあと、ケータイ小説はケータイで読むべきか、という話があり、
石原センセイは、小説の「雑誌→単行本→文庫」という流れと比較して、
「ケータイの画面→書籍」と、媒体が変わってもその「作品」は同じ、
という話をしているのだが、それに関しては、簡単にうなずけなかった。


映画館で見たスターウォーズと、PCのディスプレイで見たそれは、
そうは言っても同じっちゃ、同じだ、とは思うのだけれども、
「体験」としては、だいぶ差がある気がする。雑誌と文庫との違いとは、
ちょっと格が違いすぎる気がする。でもって、ケータイ画面と書籍、では、
やっぱりだいぶ違うんじゃないかなーと、思った。


上の引用で、「あらゆるものは定義などできない」と言っているけれども、
ケータイ小説」を「ケータイで読む(読んだ)小説」と定義するか、
「ケータイで発表することを前提に書かれた小説」とで、別れてくるのかな、と。
先の定義では、小説自体というより、読んでいる読者の体験にピントが合っていて、
後の定義では、文章の内容や質を議論の対象としている気がする。


この本の中で批判されている田中久美子は、元の論文を読んでいないから、
ほんとうのところはわからないけれども、この本を読んだ印象では、
文章の中身よりも、読書体験について言っているのかなーと思った。
ジャンルの話ではなくて、体験の。


さて、本書では、ケータイ小説の代表作がいくつか紹介されているのだが、
そのあらすじが、もう、読み進めるのに大変なエネルギーを要する。
石原センセイも必死にわかりやすく話そうとしているのだろうが、
タツヤって一体誰なんだ?ケータイで読めば、楽しめるのか?


本が読めないほどの混雑した電車で、かろうじてメールなら読める、
ということはよくある。あとは、音楽を聴いたりね。そういうときに、
ケータイを使って何かを「読む」という娯楽は、けっこう、
需要あるんだろうなー、って思った。でも、そのときの「内容」は、
やっぱし、書籍になっちゃった「ケータイ小説」とは、
なーんか違うんじゃないかなー、って思いますわ。


つづく。


あ、またTSUTAYAにCD返すの、忘れた。
学生時代、レンタルビデオ屋でバイトしてた友達が、
「うちの店は延滞料でやりくりしてる」って言ってたけど、
そうかもな。とほほ。