脳あるからだは、ぼくを隠す。

村上春樹にご用心


車中のとも。
内田樹村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)
あまり期待しすぎないようにしよう、と、
いつの間にか考えていたらしく、
半信半疑で読んでいる自分に驚く。


で、普通に、面白い。よかった。
でも、なんでかわからないが、
まだ、びびって読んでいる。
誰の目を気にしているのだろう。

村上春樹の仏語訳はすらすらと読めて、フランス語の向こうにちゃんと村上春樹の文体が透けて見えた。それに対して、太宰治の仏語訳はまったく太宰的でない。ぜんぜん面白くもおかしくもないのだ。(p.79)


太宰治がしっかりと擁護されたようで、ほっとする。
なんだろう、この安堵感は。どういう距離感なんだろう。
倍音のはなしと、うなぎのはなしも面白い。


「身体で読む」(p96-99)で書かれているところで、
どうも身体と脳とを対立するもののように扱っている風で、
違和感を覚えたところがあった。

「未来が先取りされている体感」は(中略)身体的な訓練の積み重ねによってしか得ることができない。理由はうまく説明できないけれど、どれほど想像力を働かせても、体感時間の流れを逆走させることは脳の手には余る仕事だ。(p.97-98)


その体感も、脳あってこそではないのかしら。
脳も含めて身体ではないのかしら。


ここで内田樹の言っている「脳」とは、「ことば」と置き換えた方がよくないか。
「体感」をことばで説明しきれないというのは、分かる気がする。でも、
脳にも、ことばで説明できないむにゃむにゃを「体感」する能力は、
あると思うんだけどなぁ。


今日、午前中、久しぶりに運転した。
自転車の運転は忘れないように思えるが、
自動車の運転はどうだろうか。


身体が覚えている。
脳が、覚えている。


思い出せないのは、
ぼくだけだ。