補助線を探す午後

思考の補助線 (ちくま新書)


車中のとも。
茂木健一郎思考の補助線 (ちくま新書)』(筑摩書房
もぎーの本を、初めて読む。ちょいと読みにくい。
けどしかし、なんといってもこのタイトル。
タイトルだけでご飯3杯はいけそうだから、
読むぞ。


ふられそうな男へのメッセージ。
これも、補助線になるだろうか。

愛は、日々の実践だ、と言ったのはどこの詩人であったか。別れを切り出されてから急に愛の証明をひねりだせるものではない。ふたりの過ごしてきた日々の記憶がすなわち愛の決算書であり、未来への航路を示唆する手がかりとなる。記憶はしかし、過去の彫刻ではない。振り返る丘の高さや天候によって、まるで違って見える。すばらしい日々か。退屈な日々か。そうであるならば、愛をつなぎとめたい君のよすがは一体どこに求められるのか。


女は、今でも時おり君にほほえむ。そこに親愛の情は見てとれる。そして同時に、かすかな罪悪感をたたえている。近い将来、君を置いてどこかへ立ち去るという予感が、彼女の生活全体を覆っているのだ。それで、たまらず女は、君にほほえみかける。今はまだ、一番近くにいる相手であり、愛している男でもあるからだ。その愛の、日々衰えてゆくのを相談する人が見つからず、女は君を抱きしめさえする。果たしてそれは、愛を励ます行為であるのか。君には、さっぱり分からない。君はこれ以上女に近づくことができない。きつく抱きしめてそれ以上は。そうして、すごく遠くに行ってしまった女の、おそらくは「気持ち」と呼ばれるものの行方を案じている。君を愛していた女の「気持ち」は、どこか君の手の届かないところで息絶えようとしている。君は悔しい。せめて手を握ってさよならと伝えられたら。今までどうもありがとう、と。


女は、目の前でほほえむ女はすでに、全く別の人となってしまったので、君は、しかたなくにっこりとほほえむ。そしてそのほほえみに一片の幸福も含まれていないことに愕然とする。それがすなわち、女が君に見せたほほえみの正体だった。


風呂読み。
荒川洋治詩とことば (ことばのために)』(岩波書店