読書と観光の往復書簡
認知症の父親のことで、先日、
じぶんの構え方について妻に叱られた。
間違いなく、正面から向き合っていない。
「理由」は、あれこれと挙げられるだろう。
けれど、状況としては、ひとつだ。
正面から、向き合っていない。
『マンガ認知症』のことは、発売してすぐ知り、
実物をパラパラしたこともあった。想像していたのが、
どんなものだったか、微妙にその「想像とのズレ」を感じて、
買うに至らなかった。その後も、TL上での評判や、
新聞広告などで目にするたび、気になっていた。
まっすぐに帰宅するか、本屋に立ち寄って、
それを買うか、迷いに迷った。(←そんなに迷った?)
結局、本屋に向かった。本屋に行きたかっただけかもしれない。
『読書からはじまる』は、まだ売っていなかった。
ちくま新書の売り場で、こちらは無事、見つかった。
今日はもう、中身を確認するまでもなく、買うつもりで手にした。
そのまま、すこし移動すれば、プリマー新書の新刊。
自店にも入荷した『「自分らしさ」と日本語』を、
手に取る。関西弁を話す警察官のページ。気になる。
もう帰ってもよかった。そもそも今日は、
『マンガ認知症』だけを買うつもりだったのだ。
でも、せっかく来たのだから、と、検索機に、
タイトルを打ちこむ。実物を手に取れる機会。
『観光のレッスン』の在庫は3冊と出ていたが、
棚には1冊しか見当たらなかった。パラパラとする。
やはり、想像していたより、ワクワクしない。
ブックガイドも、パンチが弱い。やめようか。
でも、何かが気になって、もう一度、頭からパラパラする。
「観光」ということばを、ついつい「読書」に置き替えてしまう。
まるで同じような『読書』を体験したとしても、
そこにはさまざまな「違い」が生じます。
自由へのトレーニング、というのも、気になる。
観光が「自由へのトレーニング」になるかは、分からない。
そこまで、「観光」に関心は無い。けれども、読書が、
「自由へのトレーニング」になるとしたら、どうか。
この本がすすめる「観光」、その方法というか、身ぶりから、
「読書をすすめる身ぶり」のヒントを得られないかしら。
などと、いろいろと「買う言い訳」をこしらえながら、
頭の半分では父親のことを思っていた。父は、旅行会社で勤め、
引退後は何年か、短期大学の非常勤講師かなにかで、
「観光」の授業をうけもったことがあった。
父は、本も好きであった。
そんな父が私の本棚を見ながら、
「キミはいろんな本を読むんだね」と言った声は、
ちょっとからかうようでもあった。
この本を贈ったら、父は、
面白く読むだろうか。
帰りのエスカレーターで、自分の感傷に辟易しながらも、
この三冊の組み合わせは、なかなかに面白い化学反応がありそうだな、
という思いもあった。「観光」をナリワイとしていた父が「認知症」となり、
「自分らしさ」を見失っている。そのことを正面から受け止めきれず、
あわよくば「目をそらそう」としている自分へと「知ること」を促し、
「自分らしさ」を再検討し、自由になるための一歩めを探す。
購入。ジュンク堂書店難波店。
ニコ・ニコルソン、佐藤眞一『マンガ 認知症 (ちくま新書)』(筑摩書房)
中村桃子『「自分らしさ」と日本語 (ちくまプリマー新書)』(筑摩書房)
山口誠、須永和博、鈴木涼太郎『観光のレッスン――ツーリズム・リテラシー入門』(新曜社)
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今朝、読み始めた『チャリング・クロス』は、昼休憩時、
一気に読み切った。以前に読んだのはいつだったのか、
細部どころか、ほとんどのところを忘れ切っていたおかげで、
涙ぐんだり仰天したりの、すばらしい読書時間であった。
「手紙」が主題ではあるけれど、読書や、信頼など、
私にとって重要なことがひしめいていて、ふかくため息。
辻山さんの解説はもちろん魅力的ではあるけれど、とにかく、
本編がすばらしいから、旧版で読んだところでその読書体験は、
いささかも魅力を減じることはないだろうよ。(レッツ再読)
そうして、帰宅したところに、はがきが待っていた。
手紙を送り、送られることの喜びを知っていることは、
『チャリング・クロス』を堪能するために、
こちらは大いに助けになるだろうな。
メールでも、いい。
信頼しあっている相手と、ことばを交わすよろこび。
それは、生きている世界を確かなものにする試み。